足立リーグの歴史

足立リトルリーグの歴史

足立リーグ足立区にリトルリーグが誕生したのは1968年(昭和43年)です。
チームの名称は「足立レッドソックス」。リーグの精神は「礼儀・規律・努力・協調・信義」をモットーとし、チームカラーは赤を基調としています。

発足当時のグラウンドは、向後昭之会長(初代・区議会委員)の協力で区内の谷中区営グラウンドを確保。月額1500円の会費でリーグ活動をスタート。 しかし、ホームグラウンドといっても一日中練習できるわけでなく、半日・2時間づつの利用等でやむなく遠征の日々。精神的にも経済的にも苦しい日々が続き、グラウンド確保が一番たいへんな問題でした。2年後、高橋正男会長(三代目)の力添えで六月町の空地を借地し、約4年間リトル専用のグラウンドとして練習試合やブロック大会等を行ってきました。

その後、竹ノ塚の舎人公園グラウンドを経由し、現在の日の出緑地グラウンドに移動。その頃からリーグも大きく成長し、リーグ構成も、足立区の綾瀬地区を中心に、千住・関原・青井・六木・綾瀬・大谷田の6ブロックに分かれ、常時140〜150名程の選手が登録されておりました。そしてその当時は、城東ブロックでは「足立リーグに勝たなければ連盟大会への出場はない」とまで言われておりました。 しかし、1987年(昭和62年)あたりからリーグも衰退。登録選手数も減少し、一時期休部状態に追い込まれておりました。

その後、1989年(平成元年)〜1990年にかけて新旧役員が入れ代わり、新役員・指導者の日夜献身的な努力によって選手も増員され、またグラウンドに水道が、続いて簡易トイレが設置されました。そして1992年4月には長年の夢が叶い、日の出E/Fの両面グラウンドが年間専用グラウンドとなりました。

その後、試行錯誤を繰り返し、1998年11月には’98朝日新聞社杯日本リトルリーグ秋季東東京大会優勝’、’98雪印杯日本リトルリーグ秋季東京大会優勝’、’98ミズノ杯日本リトルリーグ秋季関東大会第三位’の成績を残すことができました。 そして、2002年には、東京連盟秋季大会で惜しくも第三位と、優勝は逃したものの、<リトルリーグの基本に戻る>をテーマに11月2日〜3日、調布の三井物産府中総合グラウンドで開催された「第一回リトルリーグベースボールフェスタ2002」の連盟代表6リーグにより交流試合に、東京連盟代表リーグとして参加することができました。 ちなみに、交流試合の対戦相手は茨城の強豪水戸リーグで、結果3−1と足立リーグが勝利。

ここ数年強くなった足立リーグがよみがえり、新生足立リーグとして今日に至っています。

足立シニアリーグの歴史

足立シニアリーグが誕生したのは1973年(昭和48年)の1月です。
シニアリーグもリトルリーグ同様、88年頃から一時リーグ活動が衰退。登録選手も減少し、やむなく89年(平成元年)より一時休部することに至りました。

その間に足立リーグも生まれ変わり、新生足立リトルリーグから14名の卒男性が誕生し、それを機に1991年8月25日「91東東京支部秋季大会開幕式及び秋季大会」に参加。約3年ぶりにシニアリーグが復活しました。

復活後の成績は燦々たるもので、復帰第一線(対戦相手チームは全て3年生)から公式戦は全てコールド負けの6連敗。その後、「96城東ブロック秋季大会」で再び真紅の優勝旗を手中に収めるチームに育ちました。

2001年夏には、松木 基選手(主将/足立区立第八中学校3年)が、中学クラスの野球オリンピックとも言われる「第十回IBA世界少年野球選手権大会(8月2日〜15日・メキシコ合衆国ベラクルス)」に投手で日本代表チーム選手に選ばれ、投打で大活躍。また近年では2006年に関東大会に出場しました。

足立シニアリーグは、歴史ある伝統が一時休部等で途切れてしまいましたが、今まさに指導者、選手、父兄が三位一体となって新しい歴史を作るべく努力しています。

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